中絶は誰の人生にも起こり得る

中絶=悪、という感覚は現代の日本社会にも根強く流れています。本当に中絶は悪なのでしょうか。産んでも育てていける見込みがない。妊娠を継続することが難しい状況にある。妊娠をした経緯が様々であるように、中絶の理由も様々です。当事者の想いを聴くこともなく、身の上に想いを馳せることもなく、中絶=悪という発想ありきで語ることで見えなくなるものがたくさんあります。

中絶に伴う罪悪感の正体

「中絶」と聞くと、暗く重たい気持ちになる人、中絶をした女性に対する怒りの気持ちの湧いてくる人、色々な人がいるはずです。「母体のなかで育ち、生まれ出るその日を待ち望んでいた命を途絶えさせてしまった」という罪悪視が、重たい気持ちや怒りの気持ちを引き起こすのだと思います。中絶を経験した女性が時として抱く罪悪感は、こうした周囲の罪悪視からきているとも言われています。

ではその女性が中絶せず出産し、その後様々な理由で育児に行き詰まる、人生に行き詰まる、そんなことがあったとしたら、中絶を罪悪視する人々は手を差し伸べるのでしょうか。そのようなことになったとしても、中絶をせず産んでよかったと諸手を挙げて言うのでしょうか。

「中絶」を選ぶことにもそれなりの理由はあります。その時なぜ中絶を選んだのかを聞きもせず非難し罪悪の目を向けることは、無責任な無言の暴力ではないでしょうか。

中絶は妊娠継続を回避する手段

中絶は妊娠や出産のカテゴリーの中で「産まない手段→胎児の命を絶つ行為」と捉えられがちですが、「妊娠継続を回避する手段→産まないと決めた女性の人生を切り開くための手段」と捉えてみるとまったく見え方が変わります。すなわち、①中絶を受ける権利はリプロダクティブ・ライツ(生殖に関わる権利)として保障されている、②避妊の延長上に中絶という選択肢がある、ということです。

中絶は女性が自分の人生を選ぶこと

もしも出産の意思のない妊娠が成立していた場合、選択されるのは中絶でしょう。

継続避妊、一次的な避妊、緊急避妊と比べて中絶は心身共に受けるストレスが一段と増えてしまう手段です。ただしこの場合のストレスの大部分は、中絶に対するスティグマ(他者や社会から個人に押し付けられる負の烙印、根拠のない間違った認識)によってもたらされているようにも思われます。

中絶を「産まない権利」という女性の権利だと捉えることができれば、自然とスティグマも消えるはずで、この考え方を受け入れられる人が増えていくことで、性の健康や女性の権利というものが大切にされる社会に近づいていくことでしょう。

中絶で守られるもの

産んでも育てていける見通しが立たない。産んで子どもを育てながらではキャリアが実現できない。妊娠の継続がかなり難しい状況にある。そのような女性は少なからずいます。先の見えないなかで無理をして産んでも、その先にあるのはやはり薄氷を踏むような人生です。それが分かっていても、産むことが正で中絶が悪でしょうか。母体の健康と安全があってこその妊娠と出産、その後の人生です。そこが守れない場合には中絶を選ぶこともあるでしょう。中絶は女性の自己決定権であり、それを行使することに罪悪視や罪悪感が伴わない時代の到来を期待します。

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