オリンピック組織委会長の失言

2021年2月3日、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏が女性蔑視発言をしたとして、2月12日に辞任を表明することになりました。辞任表明までのおよそ10日間にこのニュースは国内外を駆け巡り、海外でも様々な報道が出たほか、日本国内では森氏の辞任を求める署名活動、その他の様々な運動が盛り上がりを見せました。

森氏は「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」「女性は競争意識が強く、誰か1人が手をあげれば自分も言わなきゃいけないと思い、みんなが発言する」という主旨のことを言ったとされています。

性別や国籍、肌の色など、自分の生まれついた在り方が生きにくさの原因になるのではなく、誰でも「自分は自分に生まれてよかった」と思える社会になってほしいと思っている私にとっては、かなり衝撃的な発言でありました。

会議への姿勢がオリンピックに似合わない

女性蔑視発言としての問題点を挙げる前に、私が感じたことを書いておきたいと思います。

会議において参加者からの発言の数が多いことは、議論が成熟する糧になるものです。組織の上層部は、それだけの熱い議論が交わされ話が成熟していくことを喜ばしく思うものではないのでしょうか。そのような喜ばしさを感じず、時間がかかることを厭い参加者の活発な発言を認めない形式的な会議を良しとしているならば、その姿勢が既に、民主的で開かれたオリンピックには不似合いなのではないかと思います。

自ら選べない属性を悪く言ってはいけない

森氏は、上記のように「女性はこうである」と断定するような発言をしたと伝えられています。人間は自分がどう生まれつくか(どういう性別に生まれるか)を自分で選ぶことはできません。自ら選ぶことのできない個人の属性を掴まえて「この属性の人はこうだから」と言ってしまうことは大変な暴力性を秘めており、とても危険な発言です。

辞任表明の席上で森氏は「老害老害と言われ、何か老人が悪いかのようなことを言われ、とても不愉快だ」と語っていました。望んで年を取ったわけでもないのに「老害」と言われることはつらいですよね。選んで女性に生まれたわけではないのに「女性はこうだ」と言われてしまうことのつらさが、少しは伝わるでしょうか。森氏にはそのように伝えたい気持ちでいっぱいです。

女性がみんな話が長いという事実はなく、男女を問わず「話の長い人もいる」というだけであり、「女性は」「男性は」と大きな主語で語ることで、議論の解像度は確実に下がります。結果として、本質を見誤ってしまう可能性は大いにあり、そのことが問題をより複雑にしたり、無用のところで余計な分断や争いを生んだりする可能性もあることは、頭の片隅においておきたいところです。

差別的言動を取る人もまたこの社会の構成員

森氏は価値観を時代に合わせてアップデートすることができていないのではないでしょうか。辞任会見での森氏の態度を見る限り、問題の本質を理解して辞任したわけではないように見受けられました。性別に基づいた差別的な感性を内在化していることから脱却できないのでしょう(そういう人にも内心の自由は認められるということは忘れてはいけません。ただし、発言に責任がある役職に就いている以上、表現する自由は認められませんが)。

森氏のような感性を持っている方や、森氏の発言を差別的であると感じない方、むしろ「発言全文を読めば差別には当たらない」と擁護する方も相当数いらっしゃるようです。森氏の発言は女性蔑視であり許されないと考えている方が自らの主張を正しいと考えるように、森氏を擁護する方々も自らの主張を正しいと思っていることと思います。やや大袈裟に言えば「正義の反対にあるのは悪ではなく別の正義である」という表現の通りの状況になっています。そして、森氏や森氏の発言を擁護する方々もこの社会の構成員なのです。

対話を通してこそ差別のない社会は生み出せる

その事実を考えれば、森氏の発言は間違っている!というだけでは社会の中の溝や分断は拡がるばかりで、差別を許さない社会の実現にはむしろ遠回りになるようにも思います。長い間社会が温存してきた差別的な感性を内在化している人や世代がどうやったらその感性を差別的であると気付けるのか。「どう伝え、どう社会に広げるか」を考えた発信が重要だと感じます。

正義は大上段に振りかざして認めさせるものではなく、考えの異なる人たちとの対話を通して「確かにそうだよね」という気付きを広げていくことでしか社会に根付かせることはできないのですから。

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