情報過多時代に必要な発信者のリテラシー

SNSを活用することで、個人が社会に向けて意見を発信しやすくなりました。情報過多の現代、受け手側のリテラシー(知識、理解する能力)に目が向きやすいものですが、発信する側のリテラシーとして必要なふたつの力について考えてみたいと思います。

「言わなきゃいいのに」は日常のあらゆる場所に現れる

「なんでそんなこと言うんだろう。言わなきゃいいのに」

誰かの発言を聞いて、こんなふうに思ったことはありませんか?

ニュースになるような政治家の失言から、個人がする日常の小さな発言に至るまで、そんなふうに思わされる言葉はどこに顔を出すか分かりません。

先日、こんなことがありました。

あるインタビューの際に、インタビューゲストの方が、「××が苦手」「××が嫌い」といった発言をされたのです。

あぁ、この方はそういった好き嫌いがあったのだなと、意外な一面に驚くとともに、個人的にちょっと残念に思ったのです。

私は、その方が名指しした「××」が大好きだったからです。

インタビュー中にテンションを下げるようなことはありませんでしたが、この方とは××について語り合うことはできないのだなと思ったものでした。

何気ない発言が地雷になることもある

考えが同じ(あるいは近い)人同士であれば、こういったことは起こらないのかもしれません。でも、世の中には自分と同じ考えの人もいれば、違う考えの人もいます。だから、何気ない発言が思わぬ形で波紋を呼んだり、相手を傷つけてしまうこともあります。

そして私たちは、よほど親しい間柄でないと、その人の好き嫌いや嗜好について知る術がありません。不用意な発言は地雷になり得るのです。

天気の話はいいけれど野球と政治の話はやめておいたほうがいい、と言われてきたのは伊達じゃないですね。

SNSでの発信にも同様の慎重さが必要

対面での会話のやり取りだけに気を遣えばいいわけではないのが現代社会でもあります。

誰でもがメディアになれるSNSというツールがある今の時代には、顔も名前も住んでいる場所も知らない多くの人に自分の発信が届く可能性があります。

そのことによって、まったく知らない人同士が考えを通じ合わせ、時にはエンパワーメントされ、新しいアイデアを得、良い影響が起こる例もたくさんあるでしょう。

他方で、先ほどの対面のやり取りと同じように、何気ない発言が思わぬ形で波紋を呼んだりする場合もあるかもしれません。

手軽に発信ができるということは便利でもある反面、人を簡単に傷つけることのできる言葉の刃を、万人が無邪気に振りまわすことができるということでもあるのです。

内心の自由はあっても表現する自由は無いことも

性の健康の文脈においては、このことは特に慎重に検討されてほしい事実です。

この世界には様々なセクシュアリティ、様々な嗜好、様々な属性の人がいることを前提に性の健康の議論は進められます。多様であることを肯定する発想がその土台となります。

もちろん、世の中には、多様であることを快く思わない人、自分とは違う(と感じられる)ものや自分の理解の及ばないものを認めたくない、遠ざけたいと思っている人もいることでしょう。それはそれでいいのです。そう思う人にも「内心の自由」は保証されるのですから。内心の自由とは、心の中では何を思っても自由であるということです。

ただし、心の中で思う自由はあっても、それを表現する自由は必ずしも保証されていないということを常に念頭に置いておかねばなりません(現代社会を生きている人は、誰でも)。

それをきちんと理解していれば、「なんでそんなこと言うんだろう。言わなきゃいいのに」と誰かから思われてしまうような発言をしないという選択をすることができるかもしれません。

発信者側のリテラシーとしてのふたつの「○○力」

SNSが手軽に用いられる現代にあっては、発信の真偽を見抜く「受け手側のリテラシー」にスポットが当たる機会が多いです。意図的にデマや誹謗中傷の類を流す人は恐らくゼロにはならないし、「受け手側のリテラシー」を高めることはこの時代においてとても大事なことであることは間違いありません。

他方で、「発言・発信する側のリテラシー」についても、もっと注目が集まって、作法として定着してもいいと思うのです。ここではふたつ取り上げてみたいと思います。それが「想像力」と「沈黙力」です。

想像力とは、相手がどんな人か。この発言をしたら相手はどんなふうに思うか。そんなふうに想像する力のことです。この力があれば、「言わなきゃいいのに」な発言が減るでしょう。相手に対する想像力をめぐらせることは、相手の立場に立つことで、相手の痛みや怒り、悲しみ、喜びに想いを致すということです。そのことを通じて、相手の問題を自分事にできる力は、発言・発信の前に「これを言ったらどうなるか」と想像することにつながります。

沈黙力は、その名の通り、黙る力。思っても言わないということは時に難しいことでもありますが、だからこそ「言わない」ということが英断となる場面があります。「こんなことを言ったらどうなるだろう」と予想のつかない場面はもちろん、「好き嫌い」といった嗜好に触れる場面、誰かが傷つく可能性のある場面で、その発言自体を自分の中に秘める力をつけることも、言葉を発する人の作法としてもっと注目されていいように思います。

想像力と沈黙力で言葉への責任を果たす

瞬時に簡単に不特定多数に発信ができるようになったという手軽さと引き換えに失ってしまった、言葉の重みや言葉への責任。言葉を発することは本来、責任の伴うとても重たいことでもあるはずです。現代社会のなかでその重さがどんどんと失われていることが感じられるからこそ、改めて原点に立ち返ってはどうかと思いますし、その際に想像力と沈黙力を備えておけば、不用意に人を傷つけることもなくなろうと思うのです。

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